昭和52年09月29日 教祖生誕祭



 本日は皆さんおめでとうございます。特に今日の敬親会の皆さん、長生きのおかげを頂かれて、今日このお祭りに合われておるということはこんなにめでたいということはないと思います。本当におめでとうございます。せっかく長生きをなさったのですから、これからも、一年でも長生きのおかげを頂いて、世の中の幸せという幸せを頂き、味わって頂きたいと願っております。
 教祖様は年寄りは、私共よりもそれだけ早くこの世の中に出てきて、それだけ世のお役にたっておるのだから、年寄りを大切にしなければならないと、御教え下さっておるように、間違いますと、年寄りはどうかのけ者にされたような、あんまり大切にされなかったりする年寄りも多いのでございます。楢山節孝にございますようにね、姥捨て山です。もう年寄りはいらんもののように、いうた時代がやっぱあったのでしょう。
 だから教祖様は年寄りを大切にせよと、年寄りは私達よりもそれだけ早くこの世の中に出てきて、この世のお役に立ったのだからと、それで本当にそのお年寄りを大切にさせてもらう。もう何が一番美しいというても、若い者がお年寄りを大切にしておる情景ほど、美しい麗しいものはございません。わけても嫁姑という仲の良いの程、これは尊いものです。本当に尊いですね。嫁さんが姑親を大切にしておる。また大切にされておる年寄りもそれを素直に喜び一杯で受けておる。こんな尊い情景てありません。
 うちの年寄りばかりは大事にしようと思うけれども、大事にされない。素直でないというのがあります。だからこれは本当に一年でも長生きのおかげを頂いてそして、この世の幸せを本当に満喫して有り難い勿体無いで私共、私自身もぼちぼち皆さんの仲間入りをさせて頂かなければならないのですけれども、それを思うのです宗教。所謂信心というのは、何が眼目であるかというと、何というても人間の助かりです。
 人間が喜びいっぱいでこの世の中を生きて行くと言う事を願いとして、宗教はあるんだ、信心はあるんだ。もしそうでないならばその信心やら、宗教やらは、ちょっとおかしいと言わなければならん。私はそう思います。宗教とは私が神様から頂きます所によりますと、宗とはウ冠に示すと書いてあります。これは天地が示して下さる。それを教えるのが宗教だという。天が宇宙が示して下さる。それを教えるのが宗教だと。
 ここでは朝から私が神様からお知らせを頂き、そして私自身の信心の体験を織り交ぜて皆さんにお話を聞いておる。だからどうでも魂が救われる助かる。心が助からなければならない。けれども心が助かったら人間の幸せの条件、幸福の条件というものが足ろうてくるというのが信心なんです。私は心が豊かで心が大きくて何の心配もないと助かっておるという人があるならばです、その人の周辺には人間のあらゆる、幸福の条件、まずは健康、それから財のおかげ、お金に不自由することはありません。
 次には争い等が、心の中にも自分の周辺に起こって来る筈がありません。それが人間の本当の助かりの姿。いわゆる私が日々申しております、貧争病の無い世界でございます。ですから信心とはその貧争病の無い世界を、作って行くと言う事が宗教の願いであり、また眼目なのです。だから自分の心が助かって行く事の為に、日々の改まりもう年寄りだから改まらんで良い、研かんでも良いと言う事は有りません。それこそいうなら、いらいらしたり腹がたったり心が暗くなったりする。
 それはもう助かっていない証拠です。ところが実際私共それがありますから、はあまだ自分に本当の幸福が頂けれる、元がないのだなあと悟らせてもろうて、それを改まらせて頂くという生き方。しかも天が示して下さる、宇宙が示して下さるその教えを頂いて、心を清め心を改めていこうというのです。私はここで五つの願いというものを、毎日繰り返しご信者の皆さんにも、その事を申しております事ですけれども、一つは何というても体の丈夫でございます。
 二つ目には家庭に不和の無いと言う事が元であります。次には自分の代より子供の代、孫の代と繁盛して行けれる土台を、元を今私が作っておかなければならないと言う事です。これなんかは、沢山財産を作ったから、もう子供孫は大丈夫と言う事じゃないです。その作った財産がね、子孫を滅ぼし子供が悪い事を覚えたりという例が、もう沢山私共の身近にあります。家繁盛子孫繁盛を愈々親の代よりも、子供の代と繁盛していくその元を頂かなければならない、それを願えというのであります。
 次にはね私共のこの五体の続く限り頂く限り、何かのお役に立たせて貰わなければならない。もう何もする事がないけんぶらぶらしとりますではいかん。例えば孫と小さい子供ですよね。あのお年寄りが遊んでおるこの情景なんかは、実に微笑ましいものです。もう私は子供は好かん、ふるふる好かん子供は、あっちやるような年寄りは幸せではないです。次にはねこれは大きな願いです。
 私どもがいうならば神様の願いである、神様のいうなら御神願が成就することの為に、いうならば神様の手にも足にも、ならせて頂きたいという願いを持つこと、この五つを朝晩だけではありません、ご祈念をする度にこの願いを、合楽では皆さんがしております。。体の丈夫を願わなければなりません。私はこの五つの願いが合楽でも、打ち出されるようになりまして、例えば体の丈夫を願えとおおせられるのですから、大酒大食は自分の体を悪くします。自分の身を滅ぼすことになります。
 だから大酒を慎みます。大食を致しません。私は昼に二回茶碗で二杯づつくらい頂きます。それも私は二度でございますから、いつどういうおご馳走が参りましても、はあ食べられんと言う事はありません。どういうおご馳走が参りましてもいつも、お腹の中は八分目でございますからいつでも頂かれます。昨日も私夕食を終わっておる所へ、熊本から参ってきておる信者があの、熊本名物のサツマイモにアンコを包んだ饅頭がきたのですよ。それに先生今あがんなさってからち言うけんで。
 私はいつも八分目で頂いておるから、そして頂いてからまた一つ頂いてから調味する事が出来ます。以前私は十二時までも一時までも、起きておる事がちょいちょいですから、御夜食を致しました。けれどもこの五つの願いが出されてからこのかた、私は決して御夜食を致しません。夜食は身の切り売りをする様なものだと昔から言ってある。ですから願ったらね、願っただけではいかんのです。どうぞ体の丈夫を健康のおかげを願うからには、夜食どんする様な事は致しませんと。
 言う様なものがその内容の中になからなければなりません。家庭に不和の無きが元だと。もう信心は家庭に不和の無きが元だと。これは信心はなくても家庭に不和がないと言う事はこれほど幸せなことはございません。ですから家庭に不和の無いが元であると言う所のおかげを頂きますためには、例えば人の足元どん見よったんでは例えば、嫁ごの足元でも見よったのでは、息子の有り様でもいわば眺めておって、モヤモヤする様な事では、私は幸せになれない。
 それはやはり目に余る様な事もございますけれども、そういう時には黙って治める。もう黙って治めると言う事の素晴らしい事は、最近合楽の御信者さんで大変素晴らしいおかげを受けておられる方達が有ります。治めるという字はさんずい遍に、無口と書いてあります。さんずいとは自然と言う。自然に起きてくる様々な問題家庭の中に起きて参りますけれども、それを無口になれよという。黙って治めるこの黙って治めると言う事は神様を信じら無ければ黙って治める事は出来ません。
 もう私が黙ってさえおればよかけん、私が馬鹿にさえなっておけばよかけんでというのでは、自分達がぐうぐう言うて苦しまんならん。それとは違うです。似たようなものですけれども、似ても似つかないのです。神様を信じておるから黙っておれるのです。そこに修まっていくという治まり方は、これはもう何というてよいでしょうか、凄まじい働きが起こって参ります。黙って治めると言う事。ですから例えばどうぞ家庭が円満になるように円満になるようにと、願わんものはありませんでしょうけれども。
 本気で家庭が円満である事を願うならば、人の足元どん見とるごとあっちゃならない、それこそ見るならば自分の方の心であって、人を責めるようなことがあって、人を責めるような心があっては、家庭の中は円満になりません。親が子を責める子が親を責める。家内が主人を責める、主人がまた家内を責める。もう責め合い地獄のような事になってまいります。攻め合うと言う事はもう地獄です。ですから家庭の円満を願う。世の中には自分の事は分からずに、人の事は分かるのが多いですよね。
 自分の事は分からん。そこに教えを頂かなければなりません。ちょっと向かいの嫁さんばっかりは、どうしたびったりじゃろうかと、障子はいつも破れかぶれしてからはりゃよかつにというて笑いござったげな。そしたらその障子ばどこから見よったか、自分方の障子の破れからこうやって見よったっち言うんです。そんなもんです次にはね、四つめの願いはどうぞ御用が出来ますように、私の手足が続く限り私が64歳ですけれども、長生きのおかげを頂いて、私共の父の様に93までも生きるとするならば、もうこれは100まで生きても五体の続く限りは、朝三時半には起きさせて頂いて。
 ここで終日座って難儀な人が助けを、求めて来る人達のお取次ぎの御用を、もういっちょ70にもなったから隠居しようかとは、思うまいと思うております。もう手足の動く限りは御用に使うて頂きたい。使うて頂きよらんとですね、年をとりますとぼうけますよ。やっぱ。あんまり何もすることがなかもんじゃけん、やっぱ、恍惚な人になっては、年よりの幸せはもうありません。ですからやはり頭も使わなければならない。または五体が続く限りは、自分が出来る限りの事はそれこそ庭の草むしりでも。
 させて頂くと言う事は素晴らしい事です。もう本当に愈々若い者に大切にされる事だと思うのです。天地の親神様のいうなら手にも足にもならせて頂けれる、もう五体の続く限り、もう頭が痛うしてこたえん、今日は腹が痛かそればってん、これはしなければ食べられんけんちいうのもこれも術ないですけれどもね、皆さん当たり前のように何不自由ない生活をさせて頂いておっても、やはりこれだけはという御用があることは、よい又は若いものもその御用を取り上げるような事であってはならない。
 教祖様の御教えの中に嫁と姑の中が悪いのは、天地に響くという御教えがあります。姑親と嫁との、いうならば仲が悪いのはね、天地に響き返るという。私の母が私共子供の時分に申しよりました。私の母は大変仏教の熱心なうちから来ておりますから、その、生きたものを殺すという殺生な事が出来なかった。特にあの、あれは、お節句のころですかね、タニシを煮て食べます。私はタニシが好きですから、あの、煮てもらいたいのですけれども絶対タニシだけは取ってくるなちいいよりました。
 あれをがたがた言うて煮る時のあの音はそれこそ、三万億土まで聞こえるげなばいち。だから決してタニシは取ってきなさんな、お母さんは絶対煮てやらんというて私は、タニシを煮て貰う事、他所で食べた事はありますけれども、家で煮てもらった事はありません。母がそういいよりました。そりゃそうですよね、生身を熱い鍋の中でがたがた、あの音が三万億土まで響くと言う様にです、姑親と嫁との仲が悪いのは、天地の間にその様な悪い響きとなって伝わっていくのですから幸せになるはずがありません。
 これはありとあらゆる神様の、ご機感に適わんと言った様な事は、それは嫁と姑じゃなくて、ただの親子でもそうです。姉妹同士でもそうです。例えばもう本当に心で憎しみ合うと言った様な事が、いかに天地の心に適わんかと言う事をと、りわけ親と姑の仲というものは、それこそ神様がご覧になってお喜び下さるというなら、家庭の円満である事。しかも嫁と姑が仲が良いと言う事をもうこよなく、喜んで下さる神様です。
 昨日は毎月二十八日は若い嫁さん達の信心の研修がございます。そして今日の二十九日が毎月、お年寄りばかりの信心の研修がございます。まあここが今年がおかげを頂きまして、丁度まる十年になります。十月の十六日はその、十年の記念祭が仕えられます。もう九州東京あたりまでか、宮崎あたりからでは、もう百名からの団体で参ってくる申し込みがあっております。
 もう九州中からいわば集まって合楽へ合楽へ、集まって来る事でしょう。そういう大きな節を迎えさせて頂くにあたって、ご信者さんもう老いも若きもうって一丸となって、その準備のためにおおあらわでございます。そのいわば神様に喜んで頂きたいというても私共の心の中からそれこそ、真心溢れるものその、真心溢れるものそれが信心の中身だと思うのです。これは神様の前だけではありません。家庭の中でもそうです。始めここ十年前に、丁度十年になります。
 その敬親会と若い奥さん達のまあ、これは竹葉会と申します。始めの間はもう内の婆さんがこうの、内の爺さんがこうのというてもうそれこそ、こういう時には親先生どげな風にしていったならよかじゃろうかち、そしたら、ある元気な若い嫁さんが言い寄りました。もうそげな時には、いくら年寄りでもピシャッと言うてきかせにゃいかんばなというてから、というような会合でした。初めの間は、婆さんやらじいさんの悪口の言い合いでした。私は黙って聞いております。
 それがね二月経ち三月経ち、四月経ちしておるうちにですね、もう爺さんが悪かちゃね、婆さんが悪かっちゃない、それこそ嫁御自身が悪かつじゃったと言う様な事に気が付いてきた。いわば年寄りの方の、その明くる日の二十九日が丁度あるわけです。もうそれこそ、家の養子はこうだああだと始めの間はよかったけれどもというて、それこそ涙を流して嫁やら養子やらの悪口をはら、あんたげもそ。
 げんなと私げもこげんと言う様な話でした。それがまた今度今言うもう今時とても、嫁の悪口どん言いよるなら、おかしゅうしてここに来られんと言う事になっております。それは、言われんのじゃない、言わんですむほどしに自分自身が助かってきたというのでございます。ですから家庭がそれこそ、嫁と姑の仲がなんとも言えん美しい、喜ばしい家庭生活が出来ておる。
 そういう雰囲気の中に私共が、年をひらわせて頂いていく、又は若いものが子供がそういう雰囲気の中に育っていくのですから、愈々子孫繁盛にでもなるでしょうし、家繁盛の元にもなってくるというふうに思います。どうぞ、家繁盛、子孫繁盛、五つの願いの中にあります、まず第一体の丈夫を願わなければならない。また次には家庭の円満を願わなければならない。
 親の代よりも子供の代と繁盛して行く様に、愈々子孫繁盛家繁盛を願わなければならない。これは欲張った願いのようですけれども、どんなに何回何十回繰り返して願っても、神様、あぁせわらしいと言う事は仰らん。なぜそれは天地の親神様の願いだからなんです。氏子健康であってくれよ、氏子金にでも貧乏する様な事があってはならないよ、病気でもせんように健康であってくれよ。
 どうぞ氏子信心しておかげを受けてくれよというそのおかげというのは、私共が健康で円満でしかも愈々家繁盛子孫繁盛に繋がって行く様な土台を築いていっておるというその事が神様の願いがありますから、私共がそのことを繰り返し願っても、その神様の思いと私共の願いが交流することになります。願うからにはただ今申しましたように、健康を願うなら健康を害するような事は慎まなければなりません。
 家庭の円満を願うならば嫁御の足元どん見ておったり、また主人やらお互いの言うなら、子供の非をみて責め立てておるようでは、いつまで経っても家の中は健康になりません、健全にはなりません。円満にはなりません。いよいよ家繁盛子孫繁盛というのは、それこそいつもニコニコ笑う角には福来るといいますように、ニコニコ笑うて貯めあげていくものでなからなければ出来ません。泣く泣く貯めたのではいけません。我情我欲でそれこそ次の長い事を言うて、貯めあげたのでは必ず子供にそれが、残るとするならばまあいうならば、極端にいうならば毒の入ったものを残すようなものではないでしょうか、私はそう思います。
 例えばそういうのを私は贋金使いだと思います。日本のお金がいうならば、日本国家のいうならば裏ずけがあるからそれが、千円は千円万円は万円として通用するのです。そのいうならば裏ずけがない金は偽金です。私共の残す例えばなら残させて貰うならばその財産に、天地が喜んで下さるほどの裏ずけがあって、初めて神様のご信用を頂いた財であり、財産であるという事になります。残すならそういうものを残していきたいという風に思います。今日はご生誕祭のお祝いに引き続きましてから。
 こちらに演芸の方達がお見えになる事になっておりますから、一つお楽しみ頂きたいと思います。それから何時もの様に福引がございます。ですから福引はもう神ながらなものが良いとか悪いとか言った様なものではなくて、福引の内容をね皆さん一つ今日の教えと思うて頂いて貰いたいと思う。中々真心込めて一生懸命と申しておりますけれども、どこに手落ちがありますか分かりませんけれども、ゆっくりおくつろぎを頂いて、これからの午後の一時を過ごさせて頂き、また過ごさせて頂きたいと思います。
   どうぞ宜しく。